これからの未来で実現すべき3つのこと



人が自己を確立するには2軸を定める必要がある。
横軸と縦軸だ。
この2軸が定まらなければ、人は右に左に、上に下にさまよい続ける。
この2軸が定まった時、人は自己を確立し安心立命の状態を得る。
横軸を担うのは共同体だ。
縦軸を担うのは宗教がある地域では宗教だ。
宗教がない地域で縦軸を担うのは自らが見出す人生の意味だ。
逆を言えば宗教は人生の意味を受動的に与えてくれていると言える。
横軸は共同体、縦軸は宗教、もしくは人生の意味。
この2軸が定まった時、人は自らの位置を確定させる。
日本には宗教に値する縦軸は存在しない。
日本の宗教はアブラハムの宗教(ユダヤ、イスラム、キリスト教)のような縦軸となるような宗教ではないからだ。
日本の宗教(神道)は多神教であり、一神教のような強固な縦軸には成り得ない。
日本にも一時期(明治以降~第2次世界大戦まで)、天皇を縦軸(現人神)とした疑似宗教(国家神道)があったが、今はもうその姿はない。
日本人は明治以前は横軸のみで繋がっていたし、それでも安定して生きられていた。
身分(士農工商)は決まっていたし資本主義国ではなかったため、過酷な競争もなかったからだ。
(身分が決まっていたことは縦軸がある程度定まっていたことも意味する)。
しかし、明治維新により士農工商の階級は壊され、競争的な資本主義が導入された為、縦軸が必要となった。
※※これは私の考えだが、資本主義的競争は、横軸(共同体)をおびやかす(壊す)。
共同体のメンバーが競争相手となり潜在的な敵となるからだ。
それにより、より縦軸の必要性が増すのではないだろうか?
このことは現代の競争的教育の元に育った子供たちの幸福度が低いことにも関係しているようにも思える。
マルクスが言うように下部構造は上部構造を規定する。
即ち、経済体制である下部構造は、文化などの上部構造を決定する。
そして資本主義という経済体制の本質は『競争』である。
この下部構造により規定された上部構造の一つである教育は当然、競争的になる。
社会が競争で成り立ってるんだから、その社会の構成員を作り出す教育も当然、競争的になるよねという話である。
しかし、常に競争にさらされた子供達は心に余裕もなく、友達にも心を許せない。
学友は競争相手であり潜在的な敵であるからだ。
彼らは横の繋がり(友達)を強固に作るよりも競争に勝つことを優先する。
だって、そういう教育だから。
親や社会が彼らに与えているメッセージはこうだ。
「友達なんかよりも勉強を優先しろ。受験に勝つことだ」
彼らは何も信じるものもなく、ただ、むやみに競争に晒されている。
そして、傷ついている。
特に日本の子供(10~19歳)の自殺率は先進国(G7)の中で最悪の水準である。
そして、G7の中で偏差値教育というシステムを採用しているのは日本だけである。
それなのに日本は未だにそれを再検討する余地も考えてもいない。※※
また、日本における縦軸の創造は個人のアイデンティティの為ではなく、国家の要請としても進められた。
その経緯を以下の括弧に記す。
日本はペリー来航の脅威にさらされて以降、欧米の植民地化を避ける為、富国強兵に走った。
そして、その為に資本主義を外国から急速に輸入し国の形を新たにする必要があった。
その際に、伊藤博文を始めとした明治の元勲たちは、欧米の資本主義国の姿を手本にした。
元勲たちは、欧米の資本主義国が皆、キリスト教国であることに着目した。
また、資本主義の国は皆、キリスト教国であり、かつ民主主義の国であることにも着目した。
(民主主義国は同時にキリスト教国である。神の前では皆平等であることが民主主義を担保するからである)
そこで、明治の元勲たちは日本を新たにするにあたって、この2つを日本に取り入れ資本主義国としての新たな国つくりを進めた。
そして(ドイツのワイマール憲法を参考に)新たに作られた明治憲法にはドイツの議会制民主主義を手本とした帝国議会が導入された。
また、キリスト教を模して天皇を現人神(※キリストも現人神のようなもの)とする一神教的な疑似宗教を作った。
※以上は小室直樹『天皇の原理』『日本人のための宗教原論』などを参考にした
以上に述べたように、明治以降、日本においては資本主義化を急速に進めた。
そして、その中で、縦軸が人工的に作られた。
天皇を現人神とする疑似宗教、天皇教である。
そして、その縦軸と横軸(村落共同体)で自らのアイデンティティを定めた日本人は日本の急速な近代化を成功させた。
そしてその縦軸をもつ最期の世代(戦中派)が近代日本を発展させた。
これは確かなことである。
そしてその世代(戦中派)の後の世代は日本を発展、成長へとは導けてはいない。
これは悲しい事実である。
戦中派は第2次世界大戦に敗北後、その悔しさをバネに日本を復興、発展させた。
戦争ではアメリカに負けてしまったが、今度は経済ではアメリカに勝ってやろうという想いを胸に。
終戦時に若者であった彼らは、やがて社会を動かす側になっていく。
10年、20年後にはバリバリの働き盛りとして、社会の発展、日本の高度経済成長を担った。
そして、30、40年後には管理職的なポジションで社会の発展を担った。
日本は彼らの活躍もあり、1991年まで実質的な経済成長を続けた。
そして1991年にバブルが崩壊して以降、日本のGDPはほとんど成長していない。
もちろん、社会の発展はその社会に生きる人間によってのみもたらされるわけではないだろう。
アメリカの支援などの社会的状況、環境もあっただろう。
そして、GDP値が低い時の方が成長は容易く、その値が大きくなるにつれ、伸び率は漸減していくという当然の話もあるだろう。
(ただ、これだと他の先進国、例えばアメリカが成長を続けたのに比べて日本が成長率が低い事の理由は説明できない。
また、私は財務省による緊縮財政のみが日本が発展できなかった唯一の理由であるという単純な因果関係を手放しで信じてはいない。)
しかし、彼らが社会の中枢として生きた時代に日本が発展したというのは確かな事実である。
そして、それ以降の世代(戦後に生まれた世代)は日本を発展に導けてはいない。
例えば1945年生まれの人は日本がバリバリ高度経済成長を遂げている時代はまだ、20~30歳くらいである。
社会に出てからそんなに立っていないので仕事を覚える段階で社会の発展を担っているとは言い難い。
もちろん日本が発展を終えた1991年に彼らは45歳ほどなので、それなりの年ではある。
しかし、成長というのはその少し前に作られた構造によってなされるものである。
つまり1980年代~91年までの発展は、それ以前の高度経済成長期になされた準備、作られた構造が実を結んだ結果であろう。
それは設備投資、インフラの構築であっただろうし、現場の品質管理や生産方式、日本型経営システムの確立であっただろう。
これらの構造が確立されていた時、それを作った人達もしくは、その現場の中枢にいたのは彼ら戦後生まれではない。
よって、やはり、日本の戦後の復興、そして発展は戦中派によって成されたと言っていいのではないかと思う。
そして、それ以降の世代は日本を発展に導く事はできなかった。
長々と話してきたが、私が言いたいのは戦中派までは縦軸をしっかりと持っている(そういう教育を受けている)。
そしてそれにより定まる彼らのアイデンティティの確かさが日本を発展に導いた原動力になっているのではないか、ということである。
天皇を縦軸とした教育を幼少期に受けた彼らは自らの縦軸を定めた。
そして、横軸としての村落共同体は会社共同体へと形を変えていったが彼らの横軸を定めた。
この2軸が定まったことにより、資本主義化した過酷な日本社会そして、敗戦後の荒廃した日本社会をも彼らは勇敢に生き、発展へと導く事が出来たのではないだろうか?ということである
しかし、当然、1945年の敗戦で天皇が人間宣言したことにより、この縦軸は失われた。
そして、近年、横軸として村落、地域共同体の代わりとして機能していた会社共同体も崩壊して久しい。
よって、現代日本に生きる人々は縦軸、横軸いずれも持っていない。
よって、自らのアイデンティティが定まらず、力が発揮できないのだ。
私はそう思う。
もちろん、発展が全てではない。
しかし、ここで私が言いたかったのは発展という表面的な現象に隠れたベースにあるものである。
それが軸を定めた人間の持つ安定感、そしてパワーである。
その力を発展という表面的な現象にかこつけて語りたかったのである。
※※私は必ずしも発展至上主義者ではないが、現実的な視点から日本社会の発展は不可欠であると考えている。
例えば医療費などはGDPから捻出されており、これ以上発展が滞れば日本の医療システムを維持することも難しくなってくる。
また、年金、介護等の社会保険や公共インフラの整備、治安・行政サービスなども全てGDPから税金として捻出されたものである。
よって現実的に医療のみならず現在の日本の社会システムを維持する為には経済成長が不可欠になってくるとどうしても思われるからである。
もしくは社会システムの方を見直しても良いが、皆その覚悟は出来ているのだろうか?
医療費の自己負担が増え、「お金が無いから病院に行くのは諦めよう」となる社会。
国が提供する介護サービスや入院期間が削られて、その穴を埋める為に家族の負担が激増する社会。
水道代が爆上がりして公共交通機関も消滅して、治安も悪化した社会。
そんな社会を生きる覚悟は出来ているのだろうか?※※
戦中派は軸が定まっていた。
縦軸は教育によって教え込まれた天皇を軸とする縦軸。
横軸は村落共同体。
しかし、敗戦により当然、天皇を現人神とする教育などは出来なくなった。
では、そのかわりに出てきた教育は何か?
それが偏差値教育である。
偏差値教育は1958年(1945年生まれの人が中学生になった年)から始められた。
そして今の今まで、金科玉条、不磨の大典がごとく、日本に巣くってきた。
その偏差値教育で育った人材が日本を発展へと導けていないことは今まで散々述べてきた。
しかも、子供たちを無駄に傷つけ、痛めつけている。
人間には色々な才能がある。
絵が上手い子もいれば、歌が上手い子もいる。工作が得意な子もいれば、話をするのが上手い子もいる。
それなのに、学力という狭い尺度で子供たちを全的に評価し、ジャッジメントしている。
これでは仮に様々な豊かな才能を持っていたとしても、勉強ができなければ浮かばれない。
だからきっと、様々な豊かな才能を隠れ持った子供達は、それを見出す前に自分を閉ざし、いじけてしまうだろう。
「僕は勉強が出来ないからダメだ」と自らの豊かな可能性をトライしてしまう前に閉ざしてしまうだろう。
きっと、今までも、そういう子供が多くいたであろう。
ここで、一つ言いたいのは学歴主義と偏差値教育は必ずしも同一ではないという事だ。
例えば欧米などは学歴主義ではあるが、偏差値教育はとっていない。
欧米は、大学入学前(時)に偏差値という画一的な評価基準で子供の能力を評価、ジャッジする事はない。
だから、社会もどこの大学に入学したかで人の能力、価値を図る事はない。
だって、各々の大学で勝手に入試をしているわけだから、統一して評価する基準(偏差値)がないからだ。
ただもちろん、大学によって教授のレベル、研究施設の充実度などの教育環境に違いはある。
だからそれらを比較するランキング(大学ランキング)は存在する。
ただ、これらの大学ランキングにも入試の難易度は加味されてない。
比較すると偏差値教育は「どこの大学に入ったか」を重視する。
学歴主義は「どこの大学で何を学んだか」を重視する。
だからよく、海外の大学は「入るのは易しく、卒業するのは難しい」、日本の大学は「入るのは難しく、卒業するのは易しい」と比較される。
日本では入学が全てで後は、正直そんなに重視されない。
企業も「大学の名」は重視するが大学の成績はあまり重視しない。
だから大学での学びが形骸化する。
「入ればもう仕事は終わった」ということだ。
逆に海外の大学では卒業、そしてどれだけ学んだかの結果(成績)が全てである。
企業も大学での成績(GPA)をもちろんしっかりと見る。
どちらが合理的だろうか?
どう考えても海外だろう。
日本のやり方だと、専門性が直接、職業の能力に結びつきづらい。
だって、「大学の名」という抽象的な肩書を重視しており、具体的な専門性、専門的知識の習熟を重視していないのだから。
それだと、企業に入った時(や社会に出た時)の能力が最適に配分されない。
(大学名だけが良く、専門的知識、職業的能力が低い人が不当に高い位置に行く可能性がある)
もちろん私も学歴主義を全面的に肯定している訳では無い。
ただ、ある程度の合理性はあると思う。
ある大学で学んだことや、そこで身に着けた能力の優劣が直接、その後の職業の能力の優劣に結びつくのであれば、だ。
例えば、理性的で専門的な職業はその傾向(大学での学びと職能の相関)が高いように思う(例えば研究者とか)。
大学で学べるのはやはり理性的、知的な事であると思うからだ。
しかし、感情に大きくかかわる職業には大学での学びと職能の相関は薄いと思っている。
例えばセールスマンや営業の仕事などがそうだ。
人は論理でなく感情でモノを買う、よって、理性を逞しくすればモノ(やサービス)が売れるとは限らないと思うからだ。
なので、どこの大学でどれだけ勉強したとかは正直あまり仕事の能力に関係ないのではないかと思う。
相手の感情を読み、そのニーズを満たすという行為には大学での学びはあまり関係ないということだ。
(心理学をいくら学んでも実際にナンパ≒セールスが上手くなるとは限らないだろう?)
だから、海外の学歴主義がどの程度、その後の職業の能力との相関がある見方を出来ているかによる。
ただの学歴という抽象的なレッテルや、肩書による評価ではなく、その後の職能に結びついた怜悧な評価が出来ているのか?
もちろん、日本のように大学入学時の漠然とした入試学力を就職時の評価の基準にしているのは論外だ。
正直それでは「大学の4年間など意味がない」と言っているようなものだ。
それは社会的なリソース、時間の無駄を意味する。
日本がもしこれからも発展を志向するなら、そういう無駄から削っていく事が必要ではないだろうか?
ここで一つ言っておきたいのは、私は直接、職業に結びつく学び以外は大学には必要ないと言っている訳ではない、ということだ。
直接、職業に結びつかなくても、自らを豊かにしてくれる学びは沢山ある。
それらを大学で学ぶことも素晴らしい事だ。
しかし、それはその後の企業や社会で職業につく時の評価には反映されないだろう。
職業との結びつきが薄いのだから。それは当然でしょう。
ただ今の日本のように職業との結びつきも薄い漠然としたことを学んでいるのに、大学名だけで企業入社時に評価されるようなナンセンスなことは辞めるべきだと思う。
企業入社時の評価はもっと合理的にやってほしい。
しっかりと、その企業がやっている仕事内容と、大学で学んだこと、身につけたことが結びつく評価を。
もし、そこに合理性がないのであれば、入社の選定基準に大学卒業を課すことも必要ないだろう。
(実は多くの企業がこれに当てはまるのではないだろうか?)
とにかく、大学で学んだ内容や結果ではなく、大学名やたかだか入学時の学力を重要視する傾向は合理的ではない。
それは、人権侵害とまでは言わないが、極めて差別的だとも感じる。
だって、合理性のない基準で人を評価しジャッジしているのだ。
差別的だと思わないだろうか?
海外のように大学で学んだこと、専門性や専門的能力と会社の選定時の評価がきちんと結びついているのであればそこに合理性がある。
しかし、その結びつきが弱いのに合理性がなく人をジャッジするのは差別的だ。
そして、そのことは企業のみならず、社会的な評価にも反映されている。
人はとかく学歴という評価を合理性のない範囲まで広げて適応しがちだ。
学歴など、人間の一部分の評価にしか適応できない。
人間を例えば「肉体」「理性(思考)」「感情」と分けるならば、学歴などそのうちの「理性(思考)」のほんの一部分の評価にすぎない。
しかも、ほんの一部分だ。
全的な理性の評価に適応するのはオーバーだろう。
特に日本のように暗記重視の試験で得られる評価など、ほんとに「暗記力」や「忍耐力」などごくごく狭い範囲だけだ。
それなのに、とかく人はまるで学歴が良いとその人が全的に優れているように評価しがちだ。
学歴信仰ここに極まりという感じで、まるで洗脳に近い。小さい頃からの。
しかも、日本の学歴評価は今まで述べてきたように、海外の実体ある学歴評価とは違う、非常に抽象的で空疎で合理性のないものだ。
たかだが、18歳時の学力試験の優劣でその人の全的な評価を決めてしまう。
これほど愚かなことはない。
そして、それは子供達への評価にも当てはまる。
先に述べたように、偏差値という学力試験の結果による評価は非常に狭い範囲で子供たちを評価するものだ。
それは、子供達の自己評価を下げ、可能性の芽を摘んでしまう、非常に愚かな評価基準だ。
(学習の習熟度を測るために試験はいると思うが、なぜその結果を偏差値という指標で周りと比較しなければならないのか?
各々、それぞれ習熟度には差があっていいでしょ?それぞれ別人なんだから。それを他人と比較することの意味は何なのか意味不明である。
他人と比較して競争に勝ち優越感を得る事を志向させたいがためか?
それなら、それは酷く悪趣味だ。他人と比較する事ほど精神の衛星を乱すものはないからだ。)
もし日本の未来を考えるなら日本の教育システムの再考が求められると私は切実に思う。
私はこれからの教育においては現在の知識を教え込むというティーチングから、子供各々の個性や特性を見極め、才能、興味を引き出していくコーチングへのシフトが必要になってくると思っている。
現在のティーチング式の教育は工業化した社会の中でマニュアル通りに働く工場などで働く単純労働者を作るのには大いに役立っていた。
それはミスなく、そつなく、言われたことを文句もなく、能面でやるような受動的な人間。
それはまるで、何も疑わず、ただ、親や教師に言われた通りに勉強していればそれでいいと思っている面白みのない人間。
オウム真理教は受験秀才のことを「自動販売機」と称したが、言い得て妙だ。
あるインプットには決まったあるアウトプット(解答)を自動的に返してくる機械のような人間。
しかし、もうそのような人間は文字通りはマシーン、AIによってとって変わるだろう。
日本の学歴信仰、受験信仰は甚だしいが、現代のAI(chatgptやdeepseek)は既に東大理三の模擬試験に合格している。
つまり、我々が祭り上げている受験における最高峰などはAIにすら容易に到達できるものであるということだ。
そんなものを、後生大事に信仰の対象として祭り上げてどうする?
絶大なる価値とみなしてどうする?
我々はもっと、肉体、感情、情緒、そしてもっと広い理性まで含めた全人的な教育をするべきではないのか?
これからの時代、それこそが人間を真に教育するということだと思うのだがどうであろうか?
教育においては項を改めてまた詳しく述べたいと思う。
なぜ脱線してここまで教育について語ってきたかと言うと、これからの日本が輝かしい未来を迎えるのに教育の変革は不可欠であると私は考えているからである。
だから、本題とは関係ない教育につい長々と語った。
そして、もう一つ日本の輝かしい未来に必要だと考えているのが男女平等なのだが、その話はまた項を改めてしたいと思う。
が、せっかくなので端的に説明すると、男女平等とは特に女性が社会における自己実現を男性と同じレベルで志向できることを言っている。
その為には、現実的な女性の社会進出がもちろん重要だが、それ以上に重要なのは意識の変革である。
その意識とは「女性は良い男性に出会い、その男性に幸せにして貰うものだ」という意識の改革である。
この「自らの幸せを男性に委ねる意識」を女性や社会が一般的に有している限り、女性の社会進出は男性と同じレベルには到達できない。
なぜなら、その意識では男性と対等には決してならないからだ。
まるでそれは親に依存している子供が大人とは対等にはならないのと同じように。
逆に女性は男性に頼らなくても自ら幸せになれるという意識が社会の一般となった時、そのとき社会的な意識は男性と女性を対等とみなす。
そして、そのとき初めて女性の社会進出は男性と同じレベルに到達するだろう。
社会進出という現実的な現象が先か、意識の変革が先かと言う話だが、今までは社会進出という現象ばかりに世の中はこだわってきた。
しかし、それではアファーマティブアクションとしての建前の社会進出は進んでも意識は追いついていない。
それだと結局、揺り戻しが起こるだろう。
そうではなく、意識が先で社会進出という現象が後だ。
「女性も男性と同じように自分の足で立つ覚悟ができたか」そのような意識を男性と社会が一般的に持つに至った時、自ずと社会進出と言う現象はついてくることだろう。
今はまだ現象的な「社会進出」だけを声高に訴え、意識の変革は不十分だと私は見ている。
そのようないいとこどりを男性や社会は目ざとく気づいているし、それを許さない。
男性に自分の幸せを頼っておきながら、同時に男性と同等な社会進出を望むなどというのは都合がよすぎるからだ。
それならば現代の男性が自らの幸せを女性に依存してはいないように、女性も自らの幸せを男性に依存する意識から脱却しなければならない。
そして、その時それは同時に今まで男が独りでしょい込んできた自らの幸せへの責任とその重み、痛みを女性も同じようにしょい込むことを意味する。
果たしてその覚悟があるのか?
もし、その覚悟を女性が持ち、自らの幸せに自らが責任をもつという意識に脱皮できれば、自ずと社会進出はついてくると思う。
そしてその時、対等な男女がお互いにパートナーシップを結び、2人でしかできないこと(例えば子育て)をお互い協力して生きていく社会となるだろう。
そして、その時、女性は家庭に自らの社会的能力を死蔵させることなく、男性と同じレベルで社会で自己実現を実現する事であろう。
そして、その時、女性の社会的能力も存分に発揮された社会はより発展していくことと私は考えている。
今まで、私は女性の意識が男性に依存的だから社会進出が進まないんだと言ってきたから、まるで女性のせいにしているかのように感じたら困るので説明を加えておく。
もともと、男性が女性をかこって養うという古くからの構造(男性優位な社会)を作ったのは男性だろう。
男性は本当は女性よりも弱く、自分に自信がなかった。
だから、女性よりも男性が社会的に有利な構造、社会を作る事で自らの劣等感を補償したのだ。
(もちろん狩猟社会では肉体に優れる男性が狩りという仕事に出る方が合理性があったという事情もあるだろう。しかし、狩猟社会を脱却してからはこの構造を半永久的に保つ合理性はそれほど高くはないはずだ。)
そして、その男性優位な構造の中に閉じ込められた女性は、「自らは弱く男性に頼らなければ幸せにはなれない」と誤解してしまった。
もしくは本当に弱くなってしまった。子供扱いされ続ける子供がいつまでも大人になれないように。
しかし、その弱さや(そのように思うこと)は作られたものだ。環境によって。男性が作った女性を劣位におく構造によって。
本当に女性が生得的に弱い訳じゃない(注:ここで言っているのは精神的なことだ。肉体的には男性の方が明らかに強い。)。
「いや!テストステロン値が低い女性はやはり、男性よりも生得的に精神的に弱く、過酷な競争社会を生き抜く強さはない!」
と言う人がいるかもしれないが、別に競争だけが社会を生き抜く術ではないし、強さを意味するものでもない。
それに、もし仮にそうなら、そもそもの競争的な社会をやめてしまえばいいではないか?という考えも出来る。
むしろ私はそれに期待している。
男性の特徴が「競争」なら女性の特徴は「協調」だ。
それなら、女性がより深く社会で自己実現したり社会にコミットすることで、現代の競争的社会を少し別の社会に変えていく事ができるのではないか?という期待を私は抱いている。
競争という方向から協調、協働という方向へだ。
競争的な男性が作った競争的社会はこの世にプラスのことも多くもたらしただろう。しかし、マイナスもきっと多くもたらしたはずだ。
それを女性がより社会にコミットする事で中和することができるのではないかと私は考えている。
本来、男性と女性は2人で一つで、互いの性質を相補的に補うように出来ているのではないか、と私には思える。
それが今までは社会においては競争的な男性が優位に支配していた。よって男性的な(競争的)性質のみが社会に現れていた。
それがもし、もっと女性が社会にコミットして社会の構造にまで影響を与えるまで至った時、その時に出来る社会は男性と女性の性質が相補的に表れた理想的な社会になるのではないか、と私は期待している。
しかし、今まで説明してきたようにその為にはやはり最初に女性自身の意識の変革が必要だ。
なぜなら、男性はそれについては何もしてくれないからだ。
男性は自分のことしか考えていないので女性自身の意識の変革をサポートすることなど恐らくない。
また、それには男性が女性を従属的に自らに依存させておく特権を手放したくないという理由もあるかもしれない。
とにかく、男性は何もしないだろう。
というか、出来ないだろう。
原理的に他人である女性の意識を変革させることなど他人である男性には出来ないことであろう。
男性がやることはせいぜい社会的な要請で、建前的にポジティブアクションを事務的に履行することだけだろう。
しかし、それでは不十分であることは先に論じた。
「女性はよい男性に幸せにしてもらうものだ」という依存的意識は元々は男性が作った男性優位な社会によって作られたものだ。
なので女性に責任はない。
しかし、それでも女性自身が自ら意識を変革しなければならないのだ。
それが出来るのは女性自身しかいないのだから。