これからの未来で実現すべき3つのこと

しかし、このようなゲマインシャフトとしての地域共同体の復活は難しいのではないか、と言うのが私の考えだ。

なぜなら現代の日本社会は都会か田舎かを問わず、基本的に一人で生き、一人で生活していくことが可能だからだ。

一人で生き、一人で生活していけるなら、地域の人々との人間関係など生まれようがない。

せいぜい、職場の同僚や隣人など限られた人との表面的な人付き合いがあるだけだろう。

そして、それらは人と人との結びつきと言えるほどの人間関係とは言えないはずだ。

しかし、かつての地域共同体では、協同で仕事をし、お互いに助け合いながら生きていた。

田植えや収穫はみんなで行っていたし、屋根の葺き替えなどは村中の人が総出で手伝っていた。

共有の井戸を維持するために全員で水路の掃除をしていたし、道が崩れれば自分たちで直していた。

誰かがケガをすれば動けない本人の代わりに、近所の人が田んぼの世話や薪割りをやってくれた(互助会による相互扶助)。

それは何もみんな仲良くとか、孤独にならないようにとか、そういう理由でそうしてきた訳ではない。

各個人にその必要性があったからだ。

助け合いながらでなければ生きていけなかったからだ。

それは全て各々の現実的な実利のためであった。

そして、その結果として、濃厚な人付き合い、人と人との深い繋がりが生まれてきた。

しかし、現代のインフラや社会保障は税金で賄われているし、地域の人みなが共同で働く機会ももうないだろう。

なので、その地域に住んでいるだけで得られる濃厚な人間関係というのは必ずしもないと言っていいだろう。

もちろん、現代でもその地域に人付き合いや、交流の場を設けることはできるだろう。

しかし、これらは基本的にその地域で人間関係を構築できなかった人達を救う為の場であって、なるべくその地域から人間関係を構築できない人を出さない為の機能としての場ではない。

ただ、根本的な問題は仮に地方から東京への流動化を食い止められたとしても、それにより各地の地域共同体が復活する訳ではないいうことだ。

もちろん、この21世紀の日本においても個人の自由が制限される守旧的で因習的な地域も未だに存在するだろう。

だが、そのような反人権的な地域は基本的には少数派で、特にこれからの時代はもっと少なくなっていくだろう。
(結(ゆい)や地域コミュニティにおける個人の自由の制限は憲法違反になる可能性が高い)

なので、基本的には都会だろうが、田舎だろうが、能動的に人間関係を構築しようとしなければ、どこでも孤独に陥る可能性は高いだろう。
(例えば極端な話、家に引きこもっているのであれば、都会だろうが、田舎だろうが、場所など関係ない)

よって、地方から東京への移動を止められたところで、人と人との結びつきが回復する社会になることはないと思う。

また、これから

また基本的にかつての地域社会において共に働き、互いに助け合っていたのは、そうすることが各個人にとってももっとも実利があったからだ。

生活の為、生きていくためにはその必要があったからだ。

その結果として、人付き合い、人とのつながりが出来たわけで、その逆ではない。

つまり孤独になりたくないから一緒に働き、相互扶助の関係を築いてきたわけではないのだ。

そして、現代の社会の発展は、

もちろん、社会の人々の共通意識が、社会の中で孤独に陥ってしまう人の為の「セーフティーネットの構築のために」変わっていけば良い方向に進むかもしれない。

しかし、その変化が劇的に進むことはないだろう。

なぜなら基本的に現代社会は一人で生きていくことが可能であり、「セーフティーネットの構築」は基本的に無駄に属するものだからだ。

かつては人々と繋がり、コネクションを持っていたのはそれが実利で成り立っていたからである。

生きていくために、生活の為に、協働で仕事をし、生活の為に、相互に助け合っていたのだ。

しかし、現代は

ではどうすればいいのか?

今までの話から導かれる答えは「意識を変えればよい」だ。

それは今までの「なるべく住人は互いに干渉せずに暮らしましょう」という意識から「住人はその地域に住む人々との交流や関わりを深めましょう」という意識へのチェンジだ。

この意識のチェンジが出来れば、その意識によって作られる社会は旧来の地域共同体に近いものになるだろう。

ではこの意識のチェンジは可能か?と言うと私は

なぜなら、地域に住む人々との交流を深めることは個人の自由を損なうリスクを常に伴うからだ。

もちろん、かつての村落共同体のような監視的社会、村のおきてを強いられるような、抑圧的社会は論外だ。

しかし、d