これからの未来で実現すべき3つのこと

人が自己を確立するには2軸を定める必要がある。

横軸と縦軸だ。

この2軸が定まらなければ、人は右に左に、上に下にさまよい続ける。

この2軸が定まった時、人は自己を確立し安心立命の状態を得る。

横軸を担うのは共同体だ。

縦軸を担うのは宗教がある地域では宗教だ。

宗教がない地域で縦軸を担うのは自らが見出す人生の意味だ。

逆を言えば宗教は人生の意味を受動的に与えてくれていると言える。

横軸は共同体、縦軸は宗教、もしくは人生の意味。

この2軸が定まった時、人は自らの位置を確定させる。

日本には宗教に値する縦軸は存在しない。

日本の宗教はアブラハムの宗教(ユダヤ、イスラム、キリスト教)のような縦軸となるような宗教ではないからだ。

日本の宗教(神道)は多神教であり、一神教のような強固な縦軸には成り得ない。

日本にも一時期(明治以降~第2次世界大戦まで)、天皇を縦軸(現人神)とした疑似宗教(国家神道)があったが、今はもうその姿はない。

日本人は明治以前は横軸のみで繋がっていたし、それでも安定して生きられていた。

身分(士農工商)は決まっていたし資本主義国ではなかったため、過酷な競争もなかったからだ。
(身分が決まっていたことは縦軸がある程度定まっていたことも意味する)。

しかし、明治維新により士農工商の階級は壊され、競争的な資本主義が導入された為、縦軸が必要となった。

※※これは私の考えだが、資本主義的競争は、横軸(共同体)をおびやかす(壊す)。

共同体のメンバーが競争相手となり潜在的な敵となるからだ。

それにより、より縦軸の必要性が増すのではないだろうか?

このことは現代の競争的教育の元に育った子供たちの幸福度が低いことにも関係しているようにも思える。

マルクスが言うように下部構造は上部構造を規定する。

即ち、経済体制である下部構造は、文化などの上部構造を決定する。

そして資本主義という経済体制の本質は『競争』である。

この下部構造により規定された上部構造の一つである教育は当然、競争的になる。

社会が競争で成り立ってるんだから、その社会の構成員を作り出す教育も当然、競争的になるよねという話である。

しかし、常に競争にさらされた子供達は心に余裕もなく、友達にも心を許せない。

学友は競争相手であり潜在的な敵であるから。

彼らは横の繋がり(友達)を強固に作るよりも競争に勝つことを優先する。

だって、そういう教育だから。

親や社会が彼らに与えているメッセージはこうだ。

「友達なんかよりも勉強を優先しろ。受験に勝つことだ」

彼らは何も信じるものもなく、ただ、むやみに競争に晒されている。

そして、傷ついている。

特に日本の子供(10~19歳)の自殺率は先進国(G7)の中で最悪の水準である。

そして、G7の中で偏差値教育というシステムを採用しているのは日本だけである。

それなのに日本は未だにそれを再検討する余地も考えてもいない。※※

また、日本における縦軸の創造は個人のアイデンティティの為ではなく、国家の要請としても進められた。

その経緯を以下の括弧に記す。

日本はペリー来航の脅威にさらされて以降、欧米の植民地化を避ける為、富国強兵に走った。

そして、その為に資本主義を外国から急速に輸入し国の形を新たにする必要があった。

その際に、伊藤博文を始めとした明治の元勲たちは、欧米の資本主義国の姿を手本にした。

元勲たちは、欧米の資本主義国が皆、キリスト教国であることに着目した。

また、資本主義の国は皆、キリスト教国であり、かつ民主主義の国であることにも着目した。
(民主主義国は同時にキリスト教国である。神の前では皆平等であることが民主主義を担保するからである)

そこで、明治の元勲たちは日本を新たにするにあたって、この2つを日本に取り入れ資本主義国としての新たな国つくりを進めた。

そして(ドイツのワイマール憲法を参考に)新たに作られた明治憲法にはドイツの議会制民主主義を手本とした帝国議会が導入された。

また、キリスト教を模して天皇を現人神(※キリストも現人神のようなもの)とする一神教的な疑似宗教を作った。

※以上は小室直樹『天皇の原理』『日本人のための宗教原論』などを参考にした

以上に述べたように、明治以降、日本においては資本主義化を急速に進めた。

そして、その中で、縦軸が人工的に作られた。

天皇を現人神とする疑似宗教、天皇教である。

そして、その縦軸と横軸(村落共同体)で自らのアイデンティティを定めた日本人は日本の急速な近代化を成功させた。

天皇を現人神とする疑似宗教で育った世代が日本を発展に導いたのだ。

これは確かなことである。