人生 時間論 自己を定める2軸

なぜ自己を定める軸は3軸ではなく2軸なのか?私が時間軸を削った理由、そして、私の時間論とエネルギーと愛、そして生の意味。

https://inochikakero.comにも記したように、私は人が世界の中での自分の位置を確かめ、安心立命を得て生きるには横軸と縦軸の2軸が必要であると話した。

横軸は共同体であり、縦軸は生きる意味だ。

そして、縦軸は宗教を持っている人ならば宗教が担う。

宗教を持っていない人ならば、その生きる意味は自ら見出さなければならない。

人はこの2軸が定まった時、安定感、安心感を得てその力を存分に発揮して人生を生きることができる。

ここで横軸はある種社会性を表すが、縦軸は個人に属するものと捉えても良い。

ただ、縦軸の生きる意味は少なからず社会性を帯びたものであるのが普通であるので、この2つは必ずしも全く独立するものではない場合もある。

例えば、イスラム圏など、社会と宗教が一体となっている国ではこの2つは混然一体となっており、必ずしも独立したものではない。

しかし、日本のように明確な一神教的宗教を持たず、共同体も崩壊しているような国に生きる人たちにはこれらは基本的に別なものと考えてもいいように思う。

例えば、共同体的な場に自らが属していたとしても、自らの生きる意味は見出せずに途方に暮れている場合があるだろう。

その逆に生きる意味は見出しているが、全く社会と隔絶して孤高に生きている可能性も個人化が進んだ現代社会では十分考えられる。

よって縦軸と横軸の2つは別々のものとした。

さてここからが本題だが、私は当初、この2軸に加えてもう一つの軸を考えていた。

それが時間軸である。

この時間軸は基本的に過去→現在→未来という典型的な直線的時間軸だと思って貰ってよい。

この時間軸を先の2軸に加えようと思っていたのは、基本的に過去がその人のアイデンティティを規定するという考え方を踏襲してのことだ。

例えば、自らや家族のルーツが現在の自分のアイデンティティの一部となっている。

もしくは、ある伝統的共同体に属するものがいるとすれば、その共同体がもつ歴史や伝統が現在の自らのアイデンティティを規定している。

個人、もしくはそれが延長された家族、もしくはもっと広く共同体の歴史や過去が現在のある人物のアイデンティティの一部を規定している。

このような考え方である。

もちろんこのような考え方は、プラスに使われる分には良いかもしれない。

例えば、自らの過去や出自、家族に誇りを持っている人、母国を誇りに思っている人などはそれが自らのアイデンティティとしてプラスに作用していることであろう。

しかし、皆がそのようなプラスの過去を持っている訳では無い。

報われない過去、安心を得られない家族関係など、暗黒の過去を背負っている人も多くいる。

そして、このような負の過去を背負っている人が先ほどの因果論的な考え方を採用すると、それは容易に悲劇的な宿命論と化してしまう。

「私みたいな報われない過去を持っている人はきっと将来も上手くいかないのであろう」と。

よって、私はこのようなマイナスのケースも考慮し、時間軸を3つ目の軸として採用する事を退けた。

なので、縦、横2軸で定められる自己に過去は入っていない。

つまり、それは現在の状態のみを表す。

もちろん、人間は現在を生きていても、ある程度、時間的幅を内包している存在である。

例えば生きる意味を持っていたとしても、それは瞬間、瞬間、ぶつ切りに生成されるものではないだろう。

そして、その生きる意味を持続的に保持したまま、行動する。

よって、2軸で定まる自己が現在の状態を表すとしても、その自己には過去からの時間的幅が多少含まれている。

しかし、2軸で定まる自己に過去が内包されていることは、必ずしも過去が現在を規定することと一緒ではない。

過去は現在に内包されているが、現在を規定するものではないということだ。

例えば現在持っている生きる意味は過去からのものだとしても、現在、全く新たに異なる生きる意味を持つことも不可能ではない。

よって、現在に過去が内包されていたとしても、それは過去が現在を(ただ一つ)に規定することとは異なる。

なので、時間軸を退けた縦、横2軸で定められる自己が純粋に現在の状態を表すとしても、矛盾しない。

ここで本題についての説明は既に終えたが、もう少し2軸と時間の関係について論じてみたい。

ただ、純粋に時間論としてこれらを論じる事は避けたい。

それは思弁的に過ぎるし、抽象的、哲学的に時間について語りたい訳ではないからだ。

あくまで、この2軸との関係で時間を語りたい。

まず、先ほど説明したように、私は第一の動機として負の因果論を退ける為に過去→現在→未来という時間軸を退けた。

また、過去は現在に内包されるが、現在をただ一つに規定するものではないので、過去→現在→未来という時間軸は客観的にも必ずしも正しくないであろう旨も述べた。

では、過去から未来ではなく、未来から過去へという時間の流れ、未来→現在→過去という時間軸はどうだろうか?

これも私は採用しない。

先ほどの過去→現在→未来という時間軸が過去からの因果論だとすれば、未来→現在→過去という時間軸は未来からの目的論であろう。

未来に抱くイメージ(目的)により現在が規定されるということだ。

これらはいずれも、過去、未来からの直線的、因果的な時間軸であり、その方向が逆になっただけである。

よって、極めて宿命的に、過去、もしくは未来から現在を縛るものであり、その本質は同じである。

もちろん、過去は変えられなくても、未来に抱くイメージは自由に変えられる。

よって、過去からの因果論よりも未来からの目的論の方がいくらか自由があるように思える。

しかし、逆に、まだ存在せず、実体のない未来というイメージに現在が縛られることは最も過酷なことであるともいえる。

つまり過去からの因果論では過去及びその延長線上である現在は可能性的には良くも悪くもなる。

しかし、実体のない未来へのイメージは過去(及び現状)がどうであろうとも、問答無用に現在を縛る事になるからだ。

もちろん、過去がどんなに暗いものであっても、ポジティブな未来をイメージして、それが現在を作るのであればそれは救いになることもあるだろう(おそらくこのように過去という変えられない原因に縛られる絶望から逃れるため作られたのが目的論的時間論であるように思える)。

しかし、同時に、現状がどうであっても、実体のない未来が強迫観念的に現在を縛る恐ろしさにも注意を向けなければならない。

例えば、(周りから見れば)かなり恵まれた現状にあっても、もし脅迫観念的に負の未来のイメージに囚われそれが現在を規定するならどうであろうか?

このように「未来」という実体のないものへの隷属も過去からの因果論と同様に過酷なものであると言ってよいだろう。

また、因果論は現在を過去の奴隷とすることで現在の価値を貶めるが、目的論も現在を単なる未来への手段とすることで同様に現在の価値を貶める。

因果論と目的論は共に現在の価値を貶めているという点では共通している。

では過去も未来もなく、ただ現在しかないのか?

純粋な時間論はどうか分からないが、ここではそうは考えない。

先ほどにも話したように、やはり現在にはある程度の時間的幅(持続的な幅)が含まれていると考えるからである。

そして、それに過去と未来は内包されている。

そして、その両者がぶつかる点が現在である。

ここにおいて、過去は現在に内包されているが現在を規定するものではない。

また、未来も現在を動かす一つの方向付けに関与するものだが、現在を規定するものでもない。

そして両者が内包された現在に生きる私は明確な空間的方向性を持たずに、自己を変質、変容させていくと考える。

そして、ここにおいて過去→現在→未来、もしくは未来→現在→過去という直線的、空間的時間論は退かれる。

ただ、この時間観も、もちろん、過去、現在、未来という時間の流れという元来の時間観を基本的には踏襲している。

ただ、その内容は現在が過去、もしくは未来に宿命論的に規定されるという時間観とは明確に異なるものである。

また、客観的に、過去→現在→未来(もしくは未来→現在→過去)という時間が空間的に存在しているという概念も退けるものである。

だからこそ、3軸目として時間軸は加えられないのである。

時間は空間的には記述できないので、3軸目として加えようがない。

また、軸としてではなくても、描きようがない。

私は2軸によって定められる自分という座標的な考えとは馴染めないものとして、時間を考えたという事だ。

もちろん、先ほど話したように現在はある程度の時間的、持続的幅を持つ。

よって、2軸で定められる平面は少なからず変化する現在を切り取った一点だろう。

しかし、それは、まるで直線的(これが時間軸に当たる)にスライドする平面を断面的に一点で切り取ったようなものではない。

このように、私は矢のような直線的時間観は否定するが、元来、我々の理性が持っている時間の流れという感覚はある程度踏襲したい。

その方が自然だからである。

もちろん、時間の流れという概念を否定する時間論もあるだろう。

例えばブロック宇宙論などがそうである。

映画の現像フィルムが、その中に映像(時間)の流れをコマとして含むように、過去、現在、未来も同時にそこに存在しているというアレである。

しかし、このような、思弁的で抽象的な考え方は、哲学的議論としては面白いかもしれないが、実際の生活とは無縁のものである様に私には思える。

また、この考え方は宇宙の全歴史の始まりから終わりまでの全てがコマ(瞬間)として、最初からそこに存在しているという考え方である。

つまり、完璧な決定論である。

よって、私としては過去、未来からの因果論、目的論を退けたようにこの時間論も退けたい。

現在は過去にも未来にも規定されず、尚且つ決定されたものでもないという立場をとりたいからだ。

つまり、現在は自由であるという立場を私はとりたい。

またもし、このブロック宇宙論のような決定論的世界観を採用するならば、人間は機械のような存在になってしまうだろう。

人間は自分の意志で人生を切り拓くのではなく、あらかじめプログラムされた通りに動く精密な機械の様になってしまう。

そのような世界観、時間観を私は積極的に採用したくはない。

ただ、仮に人間がプログラムされた通りに動く機械のような存在だったとしても、自らが自由に意志して人生を切り拓いていると思えるのなら、仮にそれが錯覚でも別に構わない様にも思える。

結局、それが錯覚かどうかなど自分では分からないのだから。

だから、正直、ある人の人生の実用上で言えばぶっちゃけ、別にブロック宇宙論でも構わないのかもしれない。

ただ、『どんなに自らが自由に意志して人生を切り拓いているとしても、結局それは錯覚なんだよ』という意識が自らの頭にもたげてくるのも何か空しくニヒリスティックな感じがするので、私はやっぱり、この時間論は退けたい。

やはり、人間の今は自由であり、過去にも未来にも規定されるものでもないし、決定しているものでもない。

このように私は考えたい。

なお、私は先ほどから『この時間論は退けたい』とか『この時間論は採用したくない』とか言っている。

だから、『お前がどれを選ぼうが、客観的にどの時間論が正しいか否かとは一切関係ないだろうが!』と感じた人も多くいるかもしれない。

しかし、これらの時間論は基本的に現代の科学では証明が難しいものの様に思える。

例えばブロック宇宙論に関して言えば、私たちは今という地点から出られないため、未来や過去が「同時に実在している」様子を外側から眺めることは不可能なはずだ。

つまり、現在と共に未来や過去が「同時に実在している」様子は観測できないので、科学的証明は難しいように思える。

また、例えば多世界解釈などの時間論(世界観)も分岐した別の世界との情報のやり取りは一切できない為、その存在を確認する術はないはずだ。

元来、時間は物質の様に実体のあるものではなく、ある種、実在しないものなので、どのようなものであっても、その時間論を客観的に証明するのは基本的に難しいように思える。

よって、言い方は悪いが、時間論を考えることはある種、思考のお遊戯のようなもので、そこには客観的正しさなど殆どないように思える。

だからこそ、私は自分が良いと思うものを選びたいのだ。

そして、もちろん、自己を定める2軸との関係にあっている時間論を選びたいのだ。

そして、それは同時に、人が生きていく上で実用的に必要な時間観であっていいと思うのだ。

客観的に絶対的に正しい時間観などないのだから。

だから、私は先に負の因果論、悲劇的な因果論を避けるために過去→現在→未来という時間軸は退けたいと言ったが、仮に誇れる過去、安心感を抱ける過去を背負っている人ならば、別に過去→現在→未来という典型的な時間観を採用する事も別に悪くないと思う。

しかし、広く一般的に考えると、誇れる過去を持っている人ばかりとは限らないから、マイナスの影響も考えて、3軸として採用するのは避けただけだ。

なので、私は私が良いと思う時間論を採用するし、自分なりに展開する。

あなたはあなたで良いと思う時間論を採用し、あなたなりに展開すればよい。

私はそう思う。

そして、私は今の自由を尊重する時間論を取りたい。

それは、現在は過去にも未来にも規定されないし、あらかじめ決められたものでもないという考えだ。

そして、それは、あらかじめ、客観的に存在する時間を私達がまるで空間的に進んでいるというような時間観ではない。

時間は私達と独立して客観的に存在するものではなく、私達自身が時間のようなものなのだ。

私達が持続的に存在することそのものが時間なのだ。

そして、その現在には過去も未来も内包されている。

これが今まで話したように私の時間観である。

そして、私は時間を持っているのは人間だけではないと考えている。

それは私が時間はエネルギーと密接に関係していると考えているからだ。

宇宙はエネルギーの出現と共に生まれた。

そして、エネルギーの出現と共に時間と空間も生まれた。

そして、私達はその宇宙のエネルギーが長い時を超えて変容した姿でもある。

これは物理的、そして物質的にも確かな真実である。

私達の身体を構成する元素はみな宇宙からやってきたものである。

水素はビックバンの時に作られたものだし、炭素や酸素、血液中に含まれる鉄はみな超新星爆発によって放出されたものである。

それが、長い時間をかけて私達を構成する要素となっているのだ。

そして、E=mc2より、物質はエネルギーと等しい。

つまり、宇宙誕生時に真空からエネルギーが生まれ、それが急激に膨張しビックバンが起こった。

そのエネルギーが散り散りとなり、長い時を経て、私達となっているのだ。

私達という物質的な存在になっているのだ。

しかし、その本質はエネルギーであり、それは元々宇宙から来たものである。

そして、エネルギーが物質という形態をとって存在しているのは何も人間だけではない。

植物や動物、そして機械もそうだ。

これらもエネルギーの一形態であり、その点では人間と同じだ。

そして、それらの存在そのものであるエネルギーが変化していく事こそが時間なのだ。

そして、それらはそれぞれが自らの変化(エネルギー消費や変容)のプロセスとしての時間を持っている。

例えば、植物には、光合成と成長というエネルギー代謝が生み出す「植物に固有の時間」がある。

例えば、岩石には、原子の振動や劣化という極めてゆっくりとした「岩石に固有の時間」がある。

例えば、機械には、エネルギーを消費し、何らかの処理や運動(変容)を行う「機械に固有の時間」がある。

そして人間にも当然、人間固有の時間がある。

それは、単なる肉体的な細胞の入れ替わり(植物的な代謝)にとどまらず、脳という宇宙で最も高密度なエネルギー消費機関が、絶え間なく「意識の火花」を散らし、膨大な情報を処理し続けるプロセスそのものである。

それが、人間特有の時間である。

つまり、エネルギーが物質という形態をとった存在には各々固有のエネルギー変化のプロセスを持っており、それ自体が固有の時間であるということである。

そして、当然だが、存在がエネルギーを変化させて活動するのは空間の中においてである。

なので、私は先ほどから、空間的、客観的に存在する時間などないと言ってきたが、実はこれは半分だけ正しいことになる。

なぜなら、空間が存在しなければ、我々は存在することが出来ず、そのエネルギーを変化させることも出来ないからだ。

つまり、時間は私達という存在と、空間の共同作業により生まれているようなものだ。

私達だけでは時間は存在せず、空間だけでも時間は存在しない。

もちろん、何もない空間にも真空エネルギーやダークエネルギーといったエネルギーが存在する。

しかし、エネルギーがただあるだけでは時間は存在しないのだ。

そのエネルギーの変容を担う存在が必要なのだ。

それが私達人間であり、動物であり、もしくはその他の存在である。

そして、各々の存在は各々固有の時間を持つと共に、各々固有の時間感覚を持っている。

この時間感覚を生じさせているのが意識である。

よって、人間はより鮮明な時間感覚を持っており、より鮮明に時間の流れというものを感じているだろう。

動物も、それなりに時間感覚を持っているだろう。

AIももちろん持つことだろう。

ただ、植物はどれだけの時間感覚を持っているかは分からない。もしかすると持っていないのかもしれない。

なんだ、終わってしまえば、オーソドックスな時間観とそんなに変わらないじゃないか?という感じもしないでもない。

また、結局、時間も物理現象の一つに過ぎず、ロマンも何もなく、人間味のない結論だろうか?

しかし、私はそうは思わない。

時間は各々が固有に持っているものだ。

いや、各々の存在自体が時間だと言っていいのかもしれない。

そして、それはそれぞれ別々のものだ。

それは人間同士でもだ。

私と彼と彼女ではそれぞれ固有の時間を持っている。

そして、それぞれ固有の存在であり、固有の時間でもある。

だから、そこに客観性など存在しない。

客観性などないのだから、それは単なる物理現象の一つとして還元できるようなものではない様に私には思える。

また、今まで話してきた様に、エネルギーの変化こそが時間そのものであり、それは存在そのものでもある(私達の肉体自体はエネルギーであるが、それが変化した時、それは時間となり、それが存在となる。つまり、肉体は静止していても、存在は流動的なものである)。

そして、それは命そのものでもある。

命はエネルギーの変化(代謝)であり、外界から取り込んだエネルギーを形を変え、排出し続けるという「流れ」そのものである。

そして、それ自体が時間である。

つまり、命自体が存在であり、時間でもある。

そして、私達にもその代謝と言うエネルギー変換が出来なくなる時が来る。

それが死である。

そして、その時、私達の肉体は朽ちていき、滅び、そして、エネルギーへと戻っていく。

そして、そのエネルギーは消えることなく、再び宇宙に帰っていく(エネルギー保存則によりエネルギーは消滅しない)。

宇宙のエネルギーが長い旅路を経て肉体という衣をまとい、その過程を終え、再び元の姿にもどり宇宙に帰っていく。

これが生と死である。

つまり、宇宙のエネルギーが私達の肉体の形をとって存在するそのプロセス自体が生であり時間である。

では、生の意味とはなんだろうか?

最期にそれについて私なりの考えを言って終わりにしたい。

我々は元々は一つだった。

それは宇宙誕生のタネとなるエネルギーだ。

それが急膨張しビックバンが起こり現在の宇宙となった。

そして、そのエネルギーは方々に散り散りになっていった。

そして、長い旅路を経て、私達の肉体という衣をまとうまでに至った。

そして、固有の肉体を持ったエネルギーはそれぞれ、固有の時間、そして固有の命を持つに至った。

固有の肉体を持ったエネルギーは意識という高度なエネルギー活動を通し、言葉や想いを外部に向かってお互いに放つことで交流を始めた。

ここにおいて、離れ離れになったエネルギーが、再び結びつこうとするプロセスが生じた。

それが絆であり愛である。

元々、一つだったエネルギーがわざわざ、離れ離れになっていったのは、おそらく、この愛を体験したいが為だ(※もちろん、エネルギーが離れ離れになって行ったのはエントロピー増大の法則に従ったからだ。しかし、なぜそれが、生命という秩序を持ってまとまったのかはエントロピー増大の法則だけでは説明できないはずだ)。

そして、それこそが、エネルギーが固有の肉体をまとった我々の生の意味であろう。

そして、各エネルギーは固有の肉体を持ち、固有の時間を持っている。

しかし、その間に伝わる愛には時間は存在しない。

なぜなら、それは各エネルギーの間を伝わるものだからだ。

各エネルギーには時間が存在するが、その間には時間は存在しない。

よって、各エネルギーの間を行き来する愛には時間は存在しない。

そして、時間はエネルギーと共に宇宙創成時に生まれた(空間も一緒に)。

つまり、エネルギー出現以前に時間は存在しない。

だから、実は時間を持たない愛こそが、エネルギーを生み、宇宙を創造した真の根源だと思うのだが、どうだろうか?

つまり、愛は自分自身を認識する為にエネルギーそして宇宙を作ったということだ。

愛が自分自身を認識する為には自分以外の何かが必要だった。

そして、その自分以外の何かを生み出す為には、時間と空間が必要だった。

だから、愛は宇宙を作ったのだ。

そして、その自分以外の何かとは私達自身ある。

そして、そこには愛が宿っている。

つまり、元々エネルギーは愛の分身であり、それが、方々に散って肉体をまとった私達も愛の分身であるということだ。

その愛の分身が、他者を通して愛を知ることこそ、宇宙の創造者である愛が自分自身を認識する事であり、宇宙を作った動機であると思うのだがどうであろうか?

以上が随分飛躍したが、時間とエネルギー、そして愛の話だった。

いずれにしても、我々は個人個人、固有の時間を持っている。

そして、それは客観的に存在する時間ではない。

各々が固有に持っている時間である。

よって、客観的時間を想定するいかなる時間観もそこには当てはまらない。

過去→現在→未来、及びに未来→現在→過去という客観的時間軸も当てはまらないし、あらかじめ決定された過去、現在、未来という時間観も当てはまらない。

また、いわゆる観測者効果による現実の収束という時間観、世界観も当てはまらない。

現在はあらゆる可能性に分かれた多世界的な未来を現在の意識が選びとることで成立するという時間観、世界観である。

しかし、この時間観も自らの外にあらかじめ決められた未来が無数に存在するという点で、客観的な時間を想定しているのとそう違いはない。

よって、これも私のいう時間には当てはまらない。

時間はその人個人を離れて存在するものではない。

時間は各個人の命そのものであり、存在そのものである。

それはその個人の現在が過去と未来を内包しながら、変容していく過程そのものである。

時間はその人の命の誕生と共に始まり、その人の命の終了と共に終わる。

よって、時間はその人の命の過程そのものである。

その人の命を離れて時間は存在しない。

だから、その人にとっての過去は存在しても、その人から離れて過去は存在しない。

同様に、その人にとっての未来は存在しても、その人から離れて未来は存在しない。

よって、客観的、空間的に存在する時間のなかに我々がいる、もしくはその中を進んでいくというイメージはことごとく当てはまらない。

また、その人の過去はその人の現在に内包されるが、現在を規定するものではない。

また、その人の未来も現在を動かす一つの方向付けに関与するものだが、現在を規定するものでもない。

よって、その人の時間も客観的、空間的に明白な方向付けを持って描けるような代物ではない。

そのような生(なま)の時間観が私の時間観である。

また、過去も未来も現在を規定しないのだから、自己を定める軸に時間軸を加える事はできない。

もちろん誇らしい過去、安心できる過去を持っている人はそれを胸にこれからを生きていけば良いだろう。

しかし、仮に報われない過去、傷ついた過去、安心できない過去を持っていようとも、それは必ずしも現在を規定するものではない。

なので、希望を持って今を生きれば、それでよいと私は思う。

今は過去に基底されず、それ故、自由なのだから。

そして、自由こそが今そのものなのだから。

そして、誰かと繋がり(横軸を定め)、自らの生きる意味を見出したのならば(縦軸を定めたならば)、その時、自ずと安寧の今を生きることになるだろう。

そして、その時、確たる方向性を持たずに有機的に変容していく今を、充実と安寧の境地で生きていくことが出来るだろう。

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